同じ高校に通う佐々木と上田は、同じ大学の同じ学科を受験するために同じ飛行機で東京に来て、同じホテルの隣同士の部屋に泊まることになった。二人は二年生の時に同じクラスだったから話すこともあったし、受験の間、一緒に行動することになった。二人とも、東京に来るのは初めてだった。
全ての試験が終わって、二人は疲れた頭で空港に向かっていた。「快速と急行ってどっちが早かと?」「さあ。1時間もあっし間に合うど。」人生で数えるほどしか使ったことが無い鉄道交通のしきたりについてぼんやりと不安を浮かべながら、行きの電車では参考書に落としていた視線を車窓に向けて、見たこともない巨大な街並みが流れていくのを眺めていた。 電車が空港の駅に着いたのは、出発予定時刻のちょうど30分前だった。出発ロビーへのエスカレーターを駆け上がったが、チェックインは締め切られていた。
振り替えの便を探すから、ここで待っているように、と空港職員に言われたきり、数時間経った。すべての便の受付が締め切られ、売店も閉まったあとのがらんとした空間に、数人が取り残された。
佐々木は、どうせ帰るのが明日なら、各々東京観光にでも行けばいいと考え始めていた。それとなく上田に提案しても、生真面目な上田はひたすら職員を待つべきだと答える。口数の少ない二人は、二言、三言交わすばかりで会話が深まらず、事態は膠着していた。 一緒に取り残された大人たちが寝支度を始めたころ、ようやく空港職員がやって来た。空港職員は、未成年をロビーに泊めるわけにはいかないから、宿を手配した。明日、7時台の振替便に遅れないように戻って来るように、と言いながら手書きの地図を手渡した。地図には、空港の隣町の駅から、宿までの道が描かれていた。
空港の隣町の駅は、小さな駅だった。改札の外の広場は駐輪場に占められて、車一台入る隙間もない。駅を取り囲む住宅を見回した佐々木は、東京のくせに自分が住んでいるマンションよりも低い建物しかない、と思った。
地図に沿って住宅街の路地を曲がると、宿の行燈が見えた。隣の住宅と変わらないしつらえの玄関に、番頭のおばさんが待ち構えていた。事情を聞いていたのか、番頭は学生服姿の二人に驚く様子もなく、部屋まで案内すると、「飛行機に間に合うように起こしに来るから、ゆっくり休みなさい。」と言った。それでも再び乗り過ごす不安に囚われていた上田は、風呂も食事も取らず早々と床についた。
一方の佐々木の頭の中では、不安とは違う空洞な何かが渦巻いておさまらなかった。今日で、高校生活が事実上終わった。滑り止めの大学には受かっていたから、もう勉強に追われることはないし、登校日も残り何日もない。ひと月後には、どこかの街で大学生になっている。何一つ実感がないまま、今は知らない街で、古びた民宿の六畳一間に閉じ込められている。
佐々木は、番頭の目を盗んで宿の外へ出た。道が途切れたり、曲がったりして見通しが悪い住宅街を、漫然と歩いた。東京の夜道は明るかった。狭い路地にも街灯があることに、佐々木は驚いた。
歩いていくと、堤防にぶつかった。堤防の上に登ると、今まで気配を感じなかったことが不思議なほどに大きな川があった。川をまたぐ高速道路の騒音に混じって、川面から、ゴトゴトと何かがぶつかる音が聞こえる。堤防の下を見下ろすと、暗闇に大きな影が揺れていた。「釣り船だ。」佐々木は思わず独り言ちて、自分が釣りが好きだったことを思い出した。
佐々木が経験のないバドミントン部に入ったのは、釣りと手首の動きが似ていると思ったからだった。バドミントン部は、勉学優先でスポーツにやる気はない、たむろしたいだけの男子の集まりだった。にも関わらず、高校の応援団の団長をバドミントン部の部長が務めるという伝統があって、三年生のはじめにジャンケンで負けた佐々木は、その年の団長として、集会での校歌斉唱のたびに全校生徒の前で指揮をさせられた。そんな理不尽な因習とも、もう関係がない。
堤防の上を河口に向かって歩いていくと、橋に行き当たった。橋の向こうは、空港の土地だった。橋を渡ると、目の前に大きな鳥居が建っていた。狛犬も賽銭箱もなく、鳥居だけがあった。平坦な土地の彼方に、空港のビルの灯りが見える。鳥居は空港の方でもなく、何もない、海の方を向いている。
奇妙な光景の前に立ち尽くしていた佐々木の横を、自転車が通り過ぎた。空港の方へ、背中に釣り竿のケースを抱えて走っていく。この先に釣り場があるんだ、と思った佐々木は、鳥居を通り抜け、その背中を追った。 自転車を追った先には川沿いの遊歩道があった。空港の土地に沿って、長々と続いていた。佐々木は遊歩道のベンチに座り、そこに釣り人が増えていくのを、ただ眺めていた。空が白んでいくとともに、遊歩道は賑わい、対岸の工業地帯は輝きを失っていった。 うたた寝をしていたのか、気がつけば時計は6時を指そうとしていた。急いで宿に戻らないといけない。佐々木は朝陽を背中に感じながら、朱色に染まる鳥居に向かって走った。始発の飛行機が、それを追い越して行った。
四年後、上田は大学の物好きな友達の企画で、夜通し歩き倒して朝日を拝む会の一行に参加していた。川沿いに歩き、河口の空港の屋上から朝日を見る行程だったが、あの日上田と佐々木が泊まった民宿を探すために、空港の隣町に寄り道をした。 駅からの記憶を辿っても、宿は見つからなかった。心当たりのある付近の住宅街をぞろぞろ歩いていると、誰かが神社を見つけた。あの日、朝起きると、佐々木はすでに出かける支度をしていた。「早かな。」と声をかけると、佐々木は「神社まで走ってきた。」と答えた。確かに神社はあった。しかし、記憶が間違っていなければ、わざわざ走って行くような距離でもない。
あの日以来、上田は佐々木と話してもいないし、連絡先も知らなかった。上田が知っている佐々木の消息は、一緒に受けた大学には落ちて、滑り止めの大学に行ったこと。そして、釣りばかりして大学をサボっているという噂だけだった。
諦めて空港に向かって歩き始めた一行は、橋を渡り、大きな鳥居に直面した。奇妙な光景にはしゃぐ一行を横目に、上田は鳥居のふもとにあった解説を読んだ。
空港の土地は、200年ほど前の干拓により開墾された。当時この一帯は遠浅の海で、漁業が盛んだった。はじめ、塩害に悩まされた新田の豊作を願って建立された神社は、遠浅の海がレジャーとして人気になると、門前町を作って大いに賑わった。しかし戦争があって、この土地には大きな空港が建設されることになり、神社は立退を求められた。遠浅の海は埋め立てられ、対岸も工場のために埋め立てが進み、海の環境が変わって漁業も廃れた。今は神社の鳥居だけが居残って、名残を惜しんでいる。
説明を読んだ上田は、自分が生まれた土地のことを思い出していた。上田が生まれた土地でも、200年ほど前から干拓が盛んに行われた。干拓地には大きな川が流れ込み、水が豊富なため工場が作られるようになった。戦時中は軍需により工場は人を集め、街は賑わった。しかしそのせいで海は汚れ、昔ながらの漁業は衰退した。今でも、塩害に悩まされる農地を差し置いて、川岸の巨大な工場が、寂れた街の経済を支えている。
空港から運ばれる人々も、工場から運ばれていく製品も、この街に降り立つことはない。上田がそんなことを考え始めていると、「日の出まであと10分だって!」という誰かの掛け声とともに、一行は空港に向かって走り始めた。