①「昔の夏祭りの屋台を模したそれらを見て、実物を見たことがないはずの子供たちが、なつかしいね、と盛んに言っていた。」(2)「真夜中をすぎたころ、流星がいくつか空を横切り、そして、宇宙へ飛び立った航空機の光も見えた。明るすぎる星みたいなその黄色い光は、音もなく、正確に軌道を滑って、彼方へ消えた。」(3)「敷地を囲んでいた外国産の木々だけは伸び続け、高層ビルほどの高さになった。」
②「百年と一日」を読んで、人と場所の関係というのを小説の中でこれほど意識的に読んだことはなかった。場所や空間というのは不安定なものだし、不気味なものでもあると思っている。それは人の存在の面影や、時に顔だったり、営みの痕跡だったり、あるいは場所に引かれた導線が浮かんできたり、モノの配置から受け取る、過去の誰かの眼差しの交点に自分が立っているからかもしれないという感覚。そういった印象が漂っていると感じるからでもあると思う。しかし同時に、空間なるもの自体が私たちの幻想なのかもしれない。かつて人が集まり、モノが運ばれ、行き交い、また通り過ぎっていった時間や記憶が交差するような場所。それらの時間と空間を移動していく感覚で「百年と一日」を読んだ。
確かにこれはどこかの誰かのあったかもしれない物語だと思った。誰かの記憶が、いつのまにか私の経験になっているかもしれない。不気味だけど、そんなこともあるかもしれない。
(1)「昔の夏祭りの屋台を模したそれらを見て、実物を見たことがないはずの子供たちが、なつかしいね、と盛んに言っていた。」この「なつかしさ」は偽物だろうか。そう思わされているのだろうか。再現されたものだからだろうか。模したもの、と、実物、との間にはどんな差があったのだろうか。読みながら不思議に思った。ハリボテの書き割りのようなものだろうか。それが「なつかしいもの」だということを子供たちは知識で知っていただけなのだろうか。歴史はなつかしさだろうか。「新しきなつかしきもの」があるとしたらどんなものだろうかと思った。
(2)「真夜中をすぎたころ、流星がいくつか空を横切り、そして、宇宙へ飛び立った航空機の光も見えた。明るすぎる星みたいなその黄色い光は、音もなく、正確に軌道を滑って、彼方へ消えた。」海と空は似ていると感じた。夜の海に見える船の明滅する光。水平の視線から一気に垂直に見上げる視線へ。海から空、宇宙への移動のスケールにぐっと来た。暗闇の中に光を追う。そして最後には水中の中に何かを見る。
(3)「敷地を囲んでいた外国産の木々だけは伸び続け、高層ビルほどの高さになった。」
これはあるいは不気味な話だ。敷地を囲む形に生えた植物の空間。建物はなくなっても、成長しつづける木々の時間。なぜこんなところに場違いな木が生えているんだろうと考えたときに、ふっと見えてくる空間の形。この形は、木々が垂直に伸びていくほど、実際の建物の高さを越えて、浮かび上がる。確かにこの風景の経験があるかもしれない。アスファルトの地面だけが残る広大な平面。駐車場の白いラインがかすかに見える。外国産の木々が囲む。夕日が沈みかけている。
80年代から全国的なリゾートやテーマパーク建設が加速し、バブル崩壊をむかえたその後などの一連の狂躁的な時代の残滓として、よく見られる風景なのかもしれない。しかし、そこにしっかりとした手触りを感じた。確かにリゾートやテーマパークによって一喜一憂する地元地域の困惑も思い浮かぶ。だけど確かにあの時、あの場所に人もモノも通い、楽しかったし、美しかったのかもしれないと思う。これまでも、これからもこのような場所は生まれては消えてを繰り返していくかもしれない。でも僕はそんな話が、そんな風景がきっと好きなのだろうと思う。
ソートン・ワイルダーの「わが町」という戯曲を思い出す。なんてことない町とそこに暮す人々の物語。町とは一つのキャラクターなのかもしれないと思うことがある。僕は演劇をやっている。そんな町の時間が好きだ。
僕は福島県と東京を行き来している。浜の町の図書館に行って、町の広報誌を過去数十年分パラパラと見ていたことがあった。この町で1986年の正月に不慮の事故でなくなった詩人であり彫刻家がいたことを知って、その人の記事はないかと調べていた時だった。町の運動会や文化祭、誰かが結婚した話、亡くなった話、表彰された話、昔話なんかが、まさしく小さな町の平凡な日々の記録としてあった。
残念ながらその詩人であり彫刻家の記事はどこにもなかったけれど、年代ごとにファイリングされた数十年分の分厚い広報誌の束が、相変わらず平凡に、2011年2月号まで続いていた。3月号はなかったし、かわりに新聞記事がたくさん挟み込まれ、町も地域もバラバラに引き裂かれたことを物語っていた。あの震災がなければ、この町のことなど一生知らなかっただろうし、気にもとめることもなかっただろうと、過去の広報誌の平凡な日々の途方もなさから、僕はその時そう思った。原子力緊急事態宣言は10年間継続中だ。
本当に小さく、これといった観光資源がある訳ではなかった港のある町のこと。僕はこの町でフィールドワークを続けながら、町の歴史や人々の生活史を見ては聞いたりした。不思議な話もたくさんあった。何気ない場所の思い出話もあった。巨大な防潮堤が海と陸を隔て、ある人は、海が見えなくなった、と嘆き、ある人は、もう海なんて見たくないからよかった、と言った。そして町民の多くが帰還することはないだろう。またある人は、この町はこれからよそもんだらけになる、と言って、彷徨っていた動物たちを引き取って、世話をしながら山林に一人で暮らしていたりする。
この町は、かつて見通せなかった山々に夕日が沈むのがきれいだ。海も山も空も広くて互いに隣り合っていて壮観だ。明かりの少ないこの町で、夜空に小惑星探査機が帰還するのが見える。月のない夜には、明かりがみんな海に吸い込まれる。
人も時間も場所も通り過ぎていく。うつろいながら今でも寂しいその町の港を思い出して、次の、また次の世代で、防潮堤で遊ぶよそもんの子供たちのことを考えた。
③アトリエには「パーシパエの牛」が完成させてあった。先生は一息ついたところで、海岸に降りて砂浜を歩いた。アトリエは20mある崖の上にあった。砂浜にはその崖に沿ってテトラポットの群れが連なっている。そこから僅かに離れて、波間からまっすぐ海食柱がそびえている。海食柱は地元で「ろうそく岩」と呼ばれていた。頭に松の木が生い茂っていた。小浜海岸は景勝地の、美しい海水浴場として地元民に愛されている場所でもあった。
先生は、昨晩、新年会を兼ねて地元の教室の生徒たち数人と飲み明かしていたが、朝には熱した鉄を張り合わせて、作品の最後の行程に取りかかっていたのだった。部屋は、鉄を熱しては冷やすを繰り返して蒸し風呂状態になっているので、外に出て海から吹く風に当たった。冬の風が体に溜まった熱をあっという間に冷ましていく。そうやってよく海岸を散歩するのが好きだった。
その日、1986年1月3日午後2時頃だった。先生はテトラポットの上を歩こうとした。なぜそうしたのかはわからない。何かを見ようとしたのだろうか。テトラポットの上から足を滑らせて、体を強く打ちつけ、隙間に転落してしまったのだった。顎は砕けて血が口から溢れ出した。なんとかそこから這い出ることはできたが、立つことが出来なかった。これ以上動くことも出来なかった。助けも呼べない。人目から外れたテトラポットの陰で、凍てつく寒さの中、先生は死んだのだった。あまりに唐突な死だった。享年69歳。
先生は井手則雄といった。詩人であり彫刻家だった。鉄を使った抽象的な彫刻作品から「鉄の詩人」と呼ばれていた。朝鮮京城府で生まれたが、幼少期に父親の故郷である長崎に移り住んだ。その後上京して東京開成中高を卒業し、東京美術学校の彫刻科に入学した。大学卒業後しばらくして戦争にも従軍した。海軍兵だった。戦場でいくつかの詩を書いて、戦後それを詩集「葦を焚く夜」として出版した。詩人としては戦後詩の同人誌「列島」(現「詩と思想」)を創刊し、彫刻家としては「前衛美術会」の結成メンバーにもなった。1952年の皇居外苑「血のメーデー事件」で、デモ隊として参加して警察予備隊と激しく衝突した人でもあった。
そんな経験の持ち主であっても、まったく穏やかな印象だった。理論家であった先生の語り口は冷静で、かと思えば二カッと歯を見せて無邪気に笑った。立ち姿もふるまいもスマートに見えた。
先生がこの町に最初に来たのは、念願の美術教育の研究に本腰を入れる環境が整って、1972年の12月に宮城教育大で美術科教授に就任して間もない頃だった。
町の文化センターで講演会を行った。その日の内に、この町がすっかり気に入ったのだった。海と山は近く、坂や台地の多い地形と、過ごしやすい気候が肌にあった。海岸の崖の上に立って、海上の気流を体に感じて、そこからの眺めもさらに気に入った。ギリシャ文化に造詣のあった先生は「まるで日本のエーゲ海ですね」とおどけながら地元の人々と話した。「水平線が此処からは彎曲して見えるほどだ。果てまでも青い海よ」
地元で世話をしてくれた花房に「私が死んだら、海を眺めるこの崖の上に墓を立てたいな。その前にこのあたりにアトリエを作りたい。さっそく誰か都合よく土地を用立ててくれる人はいませんかね」と頼んだ。話はとんとんと進み、観陽亭という温泉旅館の裏に土地を借りて「井手則雄セミナー館」を建てた。住まいは東京だったが、宮城までの中間地点のこの町はちょうどよかった。その頃東京の南荻窪で自身が運営する「造園美術コンサルタント」が手詰まりになって、そろそろフェードアウトし始めた頃でもあった。
このアトリエで地元の人々を相手に美術教室を開き、時に宮城教育大の学生たちを呼んで合宿もした。宴会もたくさんやった。東京から知り合いの作家や美術家も訪ねてきた。潮風の吹くこのアトリエで、酸化や風化に耐える鉄の使用法の研究もしていた。
鉄の、その暴力性と、熱によって変形する柔軟性に惚れ込んだ。
「鉄を溶かしていると、この基幹産業の生産材が、人殺し道具への残忍な意思を、中世そのままに受けついでいることを感じます。物質が意識をつくりかえると信用しているぼくは、こやつもデリカな抒情と敗北の意思を持つことを、思いしらせてやりたいと思いました。」
先生は時間を忘れて砂浜に横たわって、ずっと波を眺めていることがあった。その日は子安橋の上から海を眺めながら、美術教室の生徒である猪狩と話していた。猪狩は地元出身で、大学は東京の農業系の大学に入った。卒業後3年ほどサラリーマンをしていたが、地元に戻って農協に勤めていた。耕耘機やトラクターを修理する仕事や板金屋の手伝いもしていた。実家は海にほど近い農家だった。
先生は「波を横から見ているとね。トンネルになる瞬間があるんだよ。波は空洞を抱え込んでいるんだね。ずっと見ていても飽きないよ。」先生はこの波の空洞性を鉄で扱えないかと考えていた。空洞をそのうちにたたえた鉄のムーブマンと沈黙の空間。
「ここの海岸は日本では唯一かもしれない。様々な角度から大小たくさんの波が織り重なっている。」
「ここは遠浅ですからね」猪狩は答えた。彼は子供の頃によく海岸に海水浴に来ていた。祖父が付き添って来てくれた時に、「おらがこどもん頃は崖なんかじゃなかったんだぁ。砂浜はもっとずっと沖合にあってよぉ。集落だってあったんだよ。それがあっという間に後退しちまって、集落のあった場所は海ん中沈んで、ここいらも急に崖になっちまった。」と語っていたことを今でも覚えていた。
「もうすぐ河口の向こうに新しい漁港が出来ますよ」
「そうらしいね。するとあっちの漁港はどうなるんだい?」
「あそこはもう危ないですからね。崩れかかってて。いずれ廃港になるでしょうね」
「そういかい。」
明治時代にたった1人で漁港を作った男がいた。私財をなげ売って、男はツルハシをふるって1人で岩壁を掘りぬいた。天然入り江の日本一小さな漁港が出来た。しかしそこはもう使えなくなくなるだろう。新しい漁港は原発建設に伴う保障金で作られる。
日が沈みかけていた。「ドライブに行こうよ。運転してくれないか」アトリエの助手でもあった猪狩は、車に先生を乗せることが何度かあった。助手席に座った先生は車を走らせてしばらくして、いつものように五木の子守唄を口ずさみはじめた。
小浜台という丘陵台地の北側まで車を走らせて、杉の森を西に抜けて国道を横切り、阿武隈山系がよく見える線路沿いの場所に着いたあたりで車を引き返した。ぐっと勾配を下ってアトリエ近くに差し掛かったあたりで、操業間近の第二原発の排気筒が、町の南側の台地にそびえているのが見える。原発は中世の城廓跡の上に建っていた。排気筒は町のランドマークになりつつあった。
「原発は反対だよ」先生は言った。猪狩は少し驚いて、はい、とだけ答えて何も言うことが出来なかった。初めてその口から聞いた言葉だった。先生は日本で初めて原子炉が稼働した時、「第二の火」という詩を書いて発表していた。
先生の死後まもなく、回顧展が東京で開催された時、猪狩は「ポセイドン・アイゲウス」と題された作品を見た。波間に立つ何本かの柱をイメージした時、あの原発の集中式排気筒かもしれないと思った。排気筒はアトリエからもよく見えた。
1986年の8月に、崖の上のアトリエの敷地内に、地元の有志によって黒大理石の詩碑がたてられた。海が一番よく見える崖の縁に。この町の風景をうたった先生の詩が刻まれた。この場所に墓はたてられることはなかった。井手則雄セミナー館の建物はその後跡形もなく解体され、更地になった。
先生が死んでから25年後、大震災が起きた。地震と津波が襲い、北の隣町では第一原発がメルトダウンを起こした。地域住民は避難を余儀なくされた。この町にある第二原発は寸前のところで危機を脱し、崩壊は免れた。
この町では最大21mの大津波が襲った。漁港はことごとく破壊され、民家や商店は瓦礫となった。アトリエの隣にあった観陽亭も被害を受けた。崖も大きく削られた場所があった。アトリエの目と鼻の先にあった「ろうそく岩」も、根元から折れて僅かに土台を残すのみとなった。
町のシンボルでもあった「ろうそく岩」が、折れたことを知った地元の人々は残念がった。古い漁師たちは、自分たちの若い頃には「ろうそく岩」はまだなかったことを話していた。この40年くらいで、崖が削れて、次第にろうそくみたく細くなっていったのだと口を揃えた。漁師のうちの1人の仮説では、北の隣町に第一原発が出来て、海に突き出した湾港が海水の流れを変えて、こっちの崖を削り始めたのだと言った。長年海を見てきたその漁師の仮説に「あの人がそう言うんだったらそうかもしんねぇ」と話を聞いた人々は思った。そこに居合わせたある若者は「原発に火がともって、ろうそくも立って、原発が吹っ飛んで、ろうそくも消えたってことか」と冗談めかして言った。
先生のアトリエのあった場所も、いつも散歩し、波をみつめた場所も、全く様変わりした。あの詩碑も行方不明になった。先生が亡くなったテトラポットの群れにひっかかるように、自力航行能力のない石船が漂着していた。津波で60キロ南の港から流されてきたのだった。船を所有する運航会社は回収を拒否した。船は赤く錆び付いた鉄の塊となった。町民が避難し、数年間誰1人いなかったこの町で、船は取り残され段々と自重で砂の中に沈みつつあった。
それから6年がたって、町は一部を除いて避難指示が解除された。除染のため田畑の表土は削り取られ、家々は解体された。空き地が増え、疎らに残った建物もあったが、見通しのよい景観になっていった。フレコンバックにまとめられた瓦礫や廃棄物は、焼却処理された。それら粉末にされ塵となったモノたちは、コンクリートに固められ、山中に貯蔵されていった。
先生には息子がいた。息子は宇宙科学の道に進み、やがてNASAの研究員を経て、JAXAの小惑星探査のプロジェクトに参加することになった。専門が「宇宙塵うちゅうじん」だった彼は、探査機に搭載するサンプラーとそのシステムを開発し、持ち帰られたサンプルの分析を行うことになっていた。彼が関わった探査機は小惑星に向けて出発し、到着後小惑星の地表からサンプルを採取することに成功した。帰路につき、7年ぶりに地球に帰還した探査機はサンプルの入ったカプセルを分離した。大気圏に突入し空を滑っていくカプセルの光の筋が、明かりの少なくなったこの町の、南の夜空を抜けていくのが海岸からはよく見えた。先生が亡くなって35年目、震災から10年目になろうとしていた。
町には、先生の残した野外彫刻が一つだけある。「萌える」と題されたその彫刻は、数年間帰還困難区域内にあった。今は区域の境界になっているバリケードを背中にして、ロータリーの中央に、町の開花基準木の桜と共に並んで立っている。その作者が井手則雄であることを知っている町の人は誰もいない。そして先生を知る人は、町にはもういない。