「はじめて太平洋を見たときは、そりゃもう怖かった。<海>って言えば内海しか知りませんから、島影が見えんのはもう、恐ろしゅうて恐ろしゅうて。足が竦む思いでしたよ。
「海についての思い出ですか?そうですねぇ。もともと山育ちですからそんなにありませんが……そういえば、母方の大叔父が昔ボートを持っとりまして。浮き船にエンジンが付いたような小さいもんでしたけれど。子どもの頃一度だけ乗せてもらったことがありましたよ。大叔父が運転するボートに父と兄といっしょに乗り込んで、海釣りをしたんですけどね。昔っから乗り物に弱いもんですから、もう酔って酔って仕方がなくって。げぇげぇ吐きっ通しで釣りどころじゃなかったですよ。それでもちゃっかり何匹かは釣り上げましてね。海の魚っていうのは鱗がね、ずいぶん綺麗な色をしとりますよねぇ。兄なんかはいっぺんに七匹も釣り上げて。今日一番の大漁じゃなぁ!なんて言って、盛り上がりましたっけねぇ。
「大叔父は教師をしてたんですけれど、最後はボケてしまいましてねぇ。けっきょくそのまま病気で死んでしまいました。コロナのせいで帰るにも帰れませんでしたから、死に目にも会えんで。いまはもうお墓の中ですよ。
「うちの母方のお墓は山の上にありましてね。川を挟んで向こう側にある山でしたから、いっつも電車で通っとりました。母の実家がそっち側だったんですよ。毎年お盆とお正月の二回、母の実家へ挨拶に行くがてら、お墓参りをしたんですけどね。赤い色した橋があっちの山とこっちの山とを繋いでて、ちょうど橋の真下を川が流れとるんですけどね、その上を電車が走るんです。それがいっつも楽しみでねぇ。電車の中で兄といっしょにそらもうはしゃいではしゃいで。静かにしなさい!って親になんべん怒られたことか。ふふふ。天気がいいとね、橋を渡る時に電車の窓から海が見えたんですよ。川がずうぅっと流れていくその先に、山と山とに挟まれたその隙間にね、こううっすら、沈んでいく夕陽に照らされた波がゆらゆら、ゆらゆら揺れとるんがね、帰り道に見える時がありましてね。それを見とる時だけは、なぜだか不思議と静かな気持ちになって、おとなしくしてましたっけ。
「それにしても、こっちの夕焼けはずいぶん淡い色をしとりますねぇ。うちのふるさとは山に囲まれとるでしょう?そうすると、山が雲を呼び寄せますから、空に雲がない日なんてほとんどないんですけどね。その山が呼び寄せた雲がね、夕陽に焼かれて濃ゆい夕焼けになるんですよ。空が焦げたみたいにどす黒くなる日なんかもあってねぇ。夕焼けっていうのはそういうもんやと思うてましたから、こんなに淡い色した夕焼けもあるんやなぁって。これはこれで綺麗ですけどね。薄桃色に染まる時なんかは好きですねぇ。それでもやっぱり、時々ね、あの焦げつくような夕焼けが、無性に恋しくなる時もあるんですよ。」