鼎談その1「土木と詩」から「土地と身体」へ

鼎談その1「土木と詩」から「土地と身体」へ

ゲストアーティスト:三宅唱
ディレクター:藤原徹平、平倉圭

2年目を迎えた「都市と芸術の応答体」。

本年は前年度のテーマ「土木と詩」に「土地と身体」を加え、都市と芸術について更に思考を深めていく。

前年度に引き続き、映画監督・三宅唱の指導のもと映像制作や編集のワークショップを約5ヶ月開催し、視聴環境の実験を行っている中で本鼎談は開催され、2年目のテーマや初年度からの変化、RAU2021の集団のあり方について語り合った。

オンラインとオフラインが交差する2年目、果たしてどんな場が立ち上がりつつあるのか。

進行・構成:武田俊 写真:森本絢

あらためて「土木と詩」を振り返る

──昨年度、このRAUは「土木と詩」というフレーズから始まり、オンラインをメインとした定期的なセッションを経て、最後に「RAUフェス 2020-2021」というオフラインの場で完結しました。
三宅さんは以前の取材で「RAUの1年を通して発見とトライしたい新しい手法が見つかった」とお話してくれましたね。その見つかった手法について、今聞くことはできますか?

三宅唱

三宅唱

映画監督

1984年北海道生まれ。 一橋大学社会学部卒業、 映画美学校フィクションコース 初等科修了。
主な長編映画に『ワイルドツアー』(2018)、『きみの鳥はうたえる』(18) など。
最新作は Netflix オリジナルドラマ『呪怨:呪いの家』(20)。
他に鈴木了二 との共同監督作『物質試行58:A RETURN OF BRUNO TAUT 2016』(16) やビデオインスタレーション作品として「ワールドツアー」(18/ 山口情報芸術センター[YCAM] との共作)、「July 32,Sapporo Park」(19/札幌文化芸術交流センターSCARTSとの共作) などを発表している。

三宅 それがまだ言えないんです(笑)。RAUフェス後の2021年3月から劇映画の撮影に入ったんですが、その映画に、RAUで考えてきたあるテンションみたいのものを持ち込めたかなと思ってて。映画を1本作る毎に、映画に関する考え方などを再構成していきたいなって普段から思っているんですが、今回はRAUでの経験からその更新作業ができたのはとてもうれしいことでした。

──それはテクニカルな部分なのでしょうか? あるいはもっと言葉にしにくいような部分?

三宅 両方ですが、特に言葉にしにくい部分ですかね。普段一緒に映画を作っている仕事仲間たちとは、わざわざ言語化しなくても通じ合えたりする部分があってそれもとてもいいものだけれど、あえて悪く言えば、言語化せずに済んじゃうってことでもあって。つまり「留まること」に繋がりかねない。

RAUでは「土木と詩」という難しいテーマを、ああでもないこうでもないと解釈し、更新していくっていう作業を繰り返したわけですが、それはぼく一人ではとてもできないことだし、仕事仲間ともそういう対話はなかなかできない。

──言語化せずとも共有できるムードがあれば、ツーカーでの意思伝達が発生しやすいんですね。

三宅 そうそう、あらかじめ文脈を共有できてるからね。一方でバックボーンが違う人たちが集まって、あるコンテクストを探り言葉を整理していくのにはすごく時間がかかる。ひたすらトライ&エラーが続くわけだけれども、そんな時間の中で「土木ってなんだろう」って半年考えるってことが、自分の人生において存在するとは思わなかったんですよ。それはとても一人ではできないこと。

藤原徹平

藤原徹平

建築家

1975年横浜生まれ。 横浜国立大学大学院 Y-GSA 准教授。フジワラテッペイアー キテクツラボ主宰。 一般社団法人ドリフターズインターナショナル理事。 横浜国立大学大学院修士課程修了。 建築や都市のデザイン、 芸術と都市の関係 を 研 究 ・ 実 践 し て い る 。 主 な 作 品 に 「 ク ル ッ ク フ ィ ー ル ズ 」、「 那 須 塩 原 市 ま ち なか交流センター」、「京都市立芸術大学移転設計」、「ヨコハマトリエンナーレ 2017会場デザイン」、「リボーンアートフェイスティバル2017会場デザイン」など。 受賞に横浜文化賞 文化・芸術奨励賞 日本建築学会作品選集新人賞など。

藤原 同じような感覚で、ぼくもとても贅沢な時間を過ごせたなって思うんです。そもそもRAUを始めるにあたってディレクターであるぼくと平倉さんで最初に話したのは「いかに授業にしないか」ということでした。

平倉 そうでしたね。

藤原 建築家のぼくと映画研究の平倉さんはもともと芸術作品をつくる立場ではないから、共創的な空間の中から芸術作品が生みだす、そのための方法を知らないわけです。じゃあまず教える側と教わる側という非対称な関係に分かれるような場──つまり授業にならないように、ということから考えました。

そういう根気のいる作業に付き合ってくれて、かつおもしろがってくれるのは誰だろうって考えて、三宅さんにオファーさせてもらって。三宅さんがいいなって思ったのは、素晴らしい劇映画を撮りながらも、『ワイルドツアー』(*1)や『無言日記』(*2)などのように、撮るということ自体を開いて考えようとしている気がしたから。

それで相談させていただくなかで、『無言日記』の手法を使って映像を制作する、という形になっていった。「土木と詩」というテーマも途中から生まれたもので、今思うと相当出たとこ勝負でしたね。思い出すとひやひやします(笑)。

(*1)三宅唱が、YCAM(ワイカム/山口情報芸術センター)の研究開発チーム・YCAMインターラボと協働し作り上げた映画。ほぼ演技経験のない10代の中高生たちが役者として参加し、三宅唱と出演者で共に脚本や演出を考えた。
(*2)三宅唱が、iPhoneを使って日々撮り続けている映像日記。

平倉圭

平倉圭

芸術学研究者 近現代美術、 パフォーマンス、 映画

1977年生まれ。横浜国立大学大学院Y-GSC准教授。 国際基督教大学卒。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報 学)。 芸術の制作プロセスにはたらく物体化された思考を研究している。 最近はダ ンス研究を少しずつ。 著書に『かたちは思考する―芸術制作の分析』(東京大学出版会、 2019年)、『ゴダール的方法』(インスクリプト、第二回表象文化論学会賞受賞)、『オーバー・ザ・ シネマ 映画 「超」 討議』(共著、フィルムアート社)ほか。

平倉 「どうなるんだ?」って緊張感がありましたよね(笑)。「授業にしない」ためには、RAUの座組も重要でした。RAUにはぼくらディレクターの他にも、マネージャーの染谷有紀さん、山川陸さん、記録と広報の山本さくらさん、展覧会アドバイザーの武田侑子さん、デザイナーの鈴木哲生さんという運営メンバーがいるんですが、一緒にRAUのあり方を考えているんです。

そのための形式作りは結構意識的にやったかもしれないですね。隔週Zoomで集まって毎回3、4時間ほど話し合う。リモートが前提になったのでZoom、Slack、Miroなどのツールを組み合わせて、今年はNotionも導入してみました。メンバー個々の探求とそれぞれのクリエイションが影響し合う形をどうつくれるかを、みんなで苦心しながら考えていったんです。

2021年のテーマは「土地と身体」へ

藤原 実は「土木と詩」という昨年度の印象的なテーマは、平倉さんとの雑談から生まれました。あれは何からはじまったのか、、文脈はもはや思い出せませんが、新しい芸術のあり方・つくられ方について話してたんですよ。どんなところからそれは生まれるんだろうか、きっと相当離れた概念同士が繋がりあうようなことが必要だよね。そんなふうに話していた時に、ヘーゲルが『美学講義』(*3)の中で定義づけた芸術の段階のことを思い出したんです。

彼は精神の自由度ごとに様々な芸術を段階的に分類しているんだけど、ベースである第一芸術として建築があり、最上位のものとして詩があるという。でも建築はすでに芸術としての歴史や理論があるから、さらに新しい領域を掘り下げてみたい。すると端的に土木、というものが見えてきた。じゃあ「土木と詩」ぐらい遠いものを結びつけたいよね、なんてことを話したことがあったんです。

平倉 そうそう。それでRAUを立ち上げようという時に、この雑談のことを思い出したんですよね。

藤原 それで「土木と詩」について、ぼくは建築の立場から土木を定義しなおし、平倉さんは芸術学の立場から詩について考えてみる。そしてその二つの定義が引き合う融合点みたいなものを探しにいこう、と。

このテーマで考察を続けた時に、本当に大きかったのは三宅さんが幸田文の著作である『崩れ』(*4)を紹介してくれたことでした。この作品の登場によって土木を考える視点が一気に変わったんです。それまで何かをつくるための技術として土木を捉えていたのが、逆になった。

(*3)ヘーゲルは『美学講義』において、芸術を精神の自由の度合いに応じて建築→彫刻→絵画→音楽→詩の順に分類し、段階が進むほどに高度化していくという体系を構築した。
(*4)1991年に出版された書籍。72才の筆者が山の崩れた場所を巡る記録。RAU2021の初回の課題図書にもなった。

──崩れに対処するための技術としての土木、なんですね。

藤原 そうです。つまり、地球の本質は崩れることだったんだ! ってこれは昨年度のRAUのメンバーみんなで発見したことで、ものすごい財産だと思ってるんです。だから2年目のテーマは「崩れ」でもよかったの。でもあまりにも具体的だからもう少し広げてみよう、ということで「土地と身体」というフレーズが挙がってきた。

平倉 『崩れ』で描かれているのは、大谷崩というダイナミックな風景に出くわした幸田文が、それまで関心を持ったこともない山の「崩れ」に取り憑かれたように惹かれていく様子です。普段は和装で洋服も着ない人が、老体にも関わらずどんどん山に登り始める。その体と心の動きが昨年度のRAUの終盤のあり方に重なっていたので、今年は身体についても考えようと思ったんです。

三宅 ぼくは楽しみだなと思う一方、大変なことが始まるぞ……って思いましたね。というのも、昨年度の、参加者がそれぞれの生活圏で『無言日記』的にカメラを持って町で映像を撮影する、という手法はオンラインベースのプロジェクトと相性がとてもよかったわけです。それぞれがバラバラなままクリエイションできるので。

でも今回「土地と身体」というテーマになった時、当然ながら画面の中に「身体」が写されなければならない。今年度の参加者の中にはパフォーマー的な活動をしていて自身が被写体となることに慣れている人が結構いるんですが、とはいえオンラインゆえ、人と実際に会って作品制作をするのは大変な状況で、なかなか歯がゆかったです。

また、「身体」って一言で言っても、それぞれ固有のものだから、その一語に含まれる多様性をすり合わせるのにもすごく時間もかかるし、こりゃ結構むずいぞー! って思ってました。

「私はどこにいるのか」に映像で答えるために

藤原 「身体」について考える時、必ず問題になるのが「私」ですよね。「身体」が固有である以上、まず「私」の「身体」について考えることになる。「私」は今どこにいるのか、そしてどこにいくのか。そんな投げかけを皆に問うような作り方をしてみようかなと思ったんですけど、三宅さんが、指摘してくれたように結構難しいんです。ただ難しさに面した時、想像以上に多様なアプローチが今、生まれつつある。

平倉 例を出してみると、メンバーのキヨスヨネスクさんが福島の川沿いにある切り立った堤防で、被写体となる女性を撮影しています。その映像からは撮影者と被写体、2つの「身体」を感じることができるんだけど、じっと見ているとそれ以上、にこの「堤防」という場所自体を撮っているな、と感じられるんです。これが重要だ、というのが1ヶ月くらい経ってわかってきた。

どういうことかというと、身体やその運動である身振りを語るためには、それが置かれている「場所」が的確に捉えられてないとだめだなって気づきを得たんです。そこで前半のキーワードとして「私はどこにいるのか」という問いを設定しました。「私はどこにいるのか」ってある意味では自明で、いやここにいます、みたいな感じで、自分の今いる場所を撮影することはできる。でもそれだけでは何かが足りなくて、「私はここにいる」という事実を、どういうやり方で掘り下げうるのかを今それぞれのアプローチで試している段階なんですよね。今年はこんな感じで探り中です。

三宅 文字通り「手探り」そのものをズバリ撮った作品もありますよね。今回、メンバーに宮澤響さんと堀井野の花さんというロッククライマーが二人いて、その人達は岩を手探りで登るっていう作品を撮ってるんです。

藤原 これ、すごいいい作品なんだよね(笑)。

三宅 まず岩があって、そこに人物がフレームインしてきて登り始めると、にわかにその岩の質感とか大きさとか、「そこは登れてあっちは登れないんだ」という取り返しのつかなさが堀井さんの体を通して我々にインストールされてくる。

すると「私はどこにいるのか」っていう問いが少し生々しく感じられるんです。この問いって、ちょっと抽象的だし、どうにでも答えられそうだから切実に考えるのがなかなか難しいとも思うんですが、、あるひとつの決定的で取り返しのつかないアクションを観ることで、途端に具体性を帯びるというか。なんか生々しくなったんですよね。

それにインスパイアされて色んなアプローチも生まれていきました。例えばロッククラマーじゃないベルリンに住んでいる建築家の高橋まりさんというメンバーが大きな岩を自分の体を使って採寸してみよう、という作品もおもしろかった。あと、普通ならなんということなく通り過ぎてしまうような歩道橋を、まるでタイムスリップしてきた人物かのように、ゆっくりゆっくり周りを把握していこうとする作品とか。

被写体や撮影者の「身体」運動につられて、鑑賞者である僕らの空間把握の仕方も変わるようになって、それは端的に映像としておもしろい。そういう実験が進行中です。

──おもしろいですね。クライミングの技術を通して、岩肌を味わい直すことができる、ということですよね。

藤原 さらにおもしろいのがクライマ―としてプロというわけではないので、なかなかうまく登れないシーンもあって、ほんとに手探りなんですよ。何度も何度もやり直すんだけど、その身体性が『崩れ』における幸田文に近いんです。超人的な身体と言うよりかは、誰もが共感できる身体性。それが場所を手探りで掴み進んでいく。

三宅 こっちがクライミングを追体験するっていうよりも、登っている人がいなかったらまったく想像もしないような身体感覚。だから鑑賞者であるぼくらが得ているのは、映っている彼女の実感とはおそらくかけ離れているんだけど、その「身体」を通してある実感を得るための想像力を促してくれるって感じかな。その回路が開かれている。だからこそ、おもしろい。

そんな岩を登っている人のカット見た後に、アリが歩いているカットが映ると「アリめっちゃ登るのうまいじゃん! 身体能力半端ない!」って思うわけで、こういうのは小さな喜びなわけです。いや、今のちょっと違う方向にいったな。ごめんなさい。これ違うわ(笑)。

平倉 (笑)。だけど同時に、映らないってことも感じるんですよね。これは場所に取りついている映像だねってところまでは納得がいくんだけど、これで土地が映ったっていう風に言い切っていいのだろうか、みたいな。

──まさにそこが気になりました。鑑賞者としては、被写体の「身体」とその運動を通して風景を味わうわけですから、ある種の納得というか「ああ、こういうふうに風景が立ち現れていくんだな」という感慨や解釈できるポイントを求めてしまう。でもそれはどこか安易で傲慢な態度のような気もしてしまいます。

平倉 そうなんですよ。そこでRAUがおもしろいなと思うのは、「じゃあ、その岩、実際に行ってみんなで登ってみよう」みたいな態度が生まれてくるところ。映像の中だけの話に落とさずに、現場行って同じように「身体」を使って試してみて、そこからもう一回考え直そうという方向に自然と向かいはじめる。

藤原 でもまだ依然として、何を作ろうとしてるのか自分もわかってないんです。

三宅 今年にいたっては、「今年、ひょっとしたらアウトプットは映像じゃなかったんじゃないか?」って僕は隔週で思ってますからね。いや、それはそれで良いんですよ。映像表現のある種の限界に向き合えるのは、色んなジャンルのメンバーが集まっているからだし……。

──今模索している思考の先には、映像ではアプローチできない領域が含まれているんじゃないか、みたいなことなんですかね?

三宅 含まれていると思うし、そもそも制作というのは、そういうものなんじゃないですかね? なぜ映像なのか、あるいは文章なのか。音楽であるべきか、ダンスに落とし込むべきか──。。この辺上手く言いたいけど、なかなか難しいな……。

──昨年度は『無言日記』を一つの道具として採用し、皆さんが映像作品を作ってくる、という形で一年間学びを共有していったわけですが、今年も同じように進めたのですか?

藤原 今年度も『無言日記』をまず見てもらったんですが、昨年から継続的に参加しているメンバーもいるので、足並みが揃っているわけではないと思うんです。『無言日記』がどれくらいみんなの中で身体化されているどうかはちょっとわからない。

三宅 そうですね。

平倉 その意味では今年度は明確に『無言日記』をフォーマットとする、とは決めてないんですよね。今年はさらに複雑なことをやれるんじゃないかという感覚もあって。で、編集ありの映像でみんな始まったんですよね。編集もあるし、出演している「身体」もあるし──。

三宅 だからぼくはちょっと反省しましたよ。

──どういう反省ですか?

三宅 去年は『無言日記』というシンプルな共通言語があって、そこで生まれる違いがおもしろかったんです。そして、そのおもしろさはかなりのレベルまで一年目で達成済みだとも思った。『無言日記』って不器用な道具でもあるので、「もうちょっと新しい道具も使ってみない?」っていう欲望が自然と生まれちゃったんですよ。

そうしたら、すごく難しくなって……。「ジャンルの違う人が集まる場ではやっぱり、一回『無言日記』みたいなもので言語統一してからの方が、新しいおもしろさを見つけやすかったのかな?」とはちょっと思う。それはマジすみません!

平倉 でも去年は去年で、すごくきつかったですよ。

三宅 そうですね、去年は去年できつかった!(笑)。

平倉 思い返すと、去年は何も決まってない状態のまま隔週で集まり、1回4時間とか話し合っていたわけですけど、どこにも進んでいかずに「ヤバいなぁ」とは感じてたんです。ぼくなんかはわりと「このあたりでちょっと、わかりやすいゴールを設定したいな」っていう気持ちもあって。そういう先の見えない緊張感は、結局夏ぐらいまでありましたよね。

今年は今年で、新しい負荷をかける方向に進んでいる。今回の展示もそうなんですよね。映像をただ平面のものとして観るだけではなく、実空間にどう映すべきか、という新しい議論が生まれていて。まだその解答は見えていないけれど、まさに今日、三宅さんによる「技の共有」もあり、ひとつ土台が生まれたような気がしてます。

三宅 うん。今日、ひとつ進んだ気がします。

クローズドな展覧会としての「RAU試」

──今日は「RAU試」と題された合宿のような期間の中日に当たるわけですが、このアイディアはどう生まれたんですか?

藤原 昨年度の集大成の場として2月に「RAUフェス 2020-2021」と題し、ビューイング・撮影ワークショップ・映像編集ライヴパフォーマンスという形式で、外部の方にも見てもらえる場を用意しました。1年間ずっとオンラインメインでやってきたプロジェクトの最後に、オンサイトの場を用意するのは、結果としてとてもよかった。

で、今年も何かしらやろうと話していた時に、最後ではなく途中の段階でやったほうがおもしろいんじゃないかという意見が出てきて。あくまでも、途中段階なので、発表会だと思われてしまっても困る、と。なので様々な手法をクローズドで試す場にしよう、ということで「RAU試」という名前になりました。

平倉 展覧会ではあるんだけど基本的に外には開かない、自分たちが試す場なんです。

──そういう場だからこそ、今日新しい土台が発見できたと。気になるのは、それがどんな土台なのかな、というところです。

藤原 今回、ぼくはRAUでは映像作品をつくってきただけじゃないんだな、と改めて気づけたのが大きいですね。毎週zoomでメンバーのつくった映像を見ていて、「みんないい映像作れるようになってきてるな」って感じることがある。もしRAUが映像作品をつくるのが目的ならそろそろいいかなと、思えてきちゃう。

でもこうやって三次元空間の中で、同じテーマのもとに制作された複数の作品が同時に流れることで、はじめて立ち上がってくる「身体」みたいなものを感じました。

──同時に流れている作品に、どこか通奏低音のようなものを感じる瞬間がありましたか?

藤原 ちょっと音楽に近いというか。あるいはダンスに近いとか、演劇に近いそうだとか。ちょっとまだはっきりとはわからないんだけど、何か複合的な創造をしているのは間違いない。映像と空間に関わる新しい何かを作ってるんだな、ということを感じます。

三宅 個人的には演出に関するワークショップが予定されている明日が勝負だな、って思ってて。というのは、先程例に出した2作品には、画面内の「身体」が土地と影響しあっている緊張関係そのものが映し出されていたわけで、それは劇映画でもなかなか起こり得ないことなんですよね。劇映画はやっぱり基本的にには、劇を運ぶために身体が存在し、使われるわけなので。

でも今回はそうではない「身体」を撮る必要がある。それは当然劇映画の「身体」とも違うだろうから、劇映画の演出とは違う演出、。まだなんとも名付けようのない「演出のような行為、関係」がはじまりそうで、それはすごくおもしろそうだなと。

加えてひとつ訂正しておきたいことがあります。先程人がゆっくり動いていると紹介した作品ですけど、それは鑑賞者の僕にはそう見えただけで、実際にその現場、その被写体の人に起こっていることはとても高速度な情報処理だったんじゃないか、高速度で周りの状況を把握していたんじゃないか、ということです。演出したキヨスさんに聞いたところ、やはり「ゆっくり動いて」という演出ではなくて、もっと違う言葉のやりとりがあったと。これは今年生まれた新しい試みであって、それを明日他のメンバーたちは自分の「身体」を使って体験できるかもしれない。そこで新しい演出の感覚を得られた時に、今年「土地と身体」というテーマでやってよかったな、と思えるんじゃないか、というのが一応ぼくの見立てです。

──なるほど。

平倉 今日土台が生まれたと思ったのは、「技の共有」(*5)の時間が大きかったと思います。またそれが、この現実の展示空間の中で行われたというのが重要だったんじゃないかな。RAUのメンバーにはダンサーや役者など「身体」を使ったパフォーマーの方もいらっしゃいますが、もちろんそうじゃない人もいる。そういう状況で、三次元空間に同時多発的に映像が展示されているこの場所は、画面内の身体から得た刺激や共感を各自の身体で確かめながら回遊できる空間になっていたと思うんです。

で、この展示空間の中で三宅さんが、クリント・イーストウッドのオリジナル版と李相日のリメイク版の『許されざる者』をモチーフに、映画の中で人がどう動かされているのかを自身の「技の共有」としてレクチャーしてくれたわけです。レクチャーの中で、三宅さんに呼ばれたRAUメンバーがスクリーンの前で実際に作中人物の動きをなぞってみせた時に、動いている「身体」というもの、それが撮影された時にどうなるのか、ということが一つの空間の中で共有されたっていうか。「あ、こういうことか!」とそれこそ身体的に理解できたんです。それはこの空間が実験室的な、ある種模型的に世界を観察することを可能にする空間だったからかもしれない。明日は今日の発見を土台にしながら、屋外に出て、開かれたより複雑な空間でやってみようという、そのスタートラインが引かれた感じがします。

三宅 レクチャーの内容は、あくまで劇映画における演出の話だと自分では思い込んでいたので、RAUとどう関係があるのかわからず躊躇していたんですが、そう反応いただけて、僕にとっても新たな発見になりました。やってよかった……。

平倉 ぼくはふだん映画研究もしているのですが、やっぱり映画を撮影されたフレーム内部の視覚的構成で見ちゃうんですよね。でも「技の共有」で三宅さんが話していたのは、出来事をカメラでどう収めるかという前に、俳優たちにどんな位置でどんなタイミングでどう動いてもらうかを決め、それが無理なく起こるように現場を設計することが監督の仕事だ、というお話でした。そのレクチャーによって、映像の中の身体と生身の身体が、全然分けられない存在だということに初めて気づけたというか。そこから身体が位置している空間、「場所」のことが改めて見えてくる。それが今日起きたこと、という感じですかね。

(*5)RAUメンバーによる自身の「技」を他のメンバーに向けて紹介する機会。隔週水曜日で2~3名毎に行われる。

テキストの発生と「詩」の在り処

──今年度からゲストアーティストとして小説家の柴崎友香さん(*6)も加わることになったということで、映像だけではなくテキストによるアプローチも加わるわけですよね。

藤原 一つの見込みとして、今年のRAUは最終的にはオペラなのか、映画なのか、演劇なのか、まだ形態はわからないけれど、テキストが絶対必要になるなと感じてます。

三宅 うん、きっとそうですね。

藤原 脚本なのか戯曲なのか、作品を支えるテキストを実際にメンバーで作れたら幅が広がるので、やってみたいとずっと思っていて。その時に柴崎さんとならやれるかな、という直感がありました。柴崎さんと三宅さんと一緒に、形態すらまだ何かわからないものを作っていくっていうのはロマンがありますよね。

(*6)柴崎友香(小説家)
1973年大阪府生まれ。 小説家。 2000年に刊行されたデビュー作『きょうのでき ごと』が行定勲監督により映画化され話題となる。 2007年『その街の今は』で 芸術選奨文部科学大臣新人賞、 織田作之助賞大賞、 咲くやこの花賞、 2010年『千の扉』『公園へ行かないか? 火曜日に』、エッセイに『よう知らんけど日記』『よそ見津々』など著書多数。
『寝ても覚めても』で野間文芸新人賞、 2014年に『春の庭』で芥川賞を受賞。 小説作品に『ビリジアン』『パノララ』『わたしがいなかった街で』『週末カミング』

──今、「テキストが絶対に必要になる」という藤原さんの確信に、みなさんすぐ頷いていました。なんとなく理解できるんですが、改めて言葉にしてみるならば、なぜテキストが必要となるのでしょう?

藤原 去年の「土木と詩」にも繋がると思うんですけど、「詩」って重要だと思うんですよね。「詩」が介在しないと芸術にならないというか。あらゆる芸術には、有形無形を問わず「詩」が必ず存在しているってぼくは感じています。

でも「詩」の教育というのは、日本では、小学校でも中学校でも、あるいは大学においてもなかなか実現されていなくて、個人の感性に頼ってしまっているところがある。だけど、あらゆる芸術が持ち合わせている必要条件であるならば、そこをちゃんとやらないと芸術は先に進まないなと思っているんです。詩の分野以外で「詩」について話されてないのは、すごく問題だと思う。

でも「詩」を正面から学ぶのはとても難しいから、テキスト、という言い方を自分は選んだような気がします。テキストにも様々な種類があります。RAUに関連するところでは戯曲や脚本がまず浮かぶし、あるいはインタビューをしてきてもいい。日記というのもいいかもしれない。三宅さんの『無言日記』というのも、映像による日記という形式から「詩」を探して蓄積する手法だと思うんです。後半戦はテキストやメディアを横断したアウトプットから「詩」を探すことができたらと思ってます。

平倉 テキストが必要だなと思うのは、映像以上に言葉って他者と共有できる部分があるからなのかもしれません。映像って他者と同じ物を見ることができるんだけど、最後は個人の感じ方、世界の感受の仕方というところで閉じてしまう。一方、言葉というのは共有物で、そもそも他者との関わりのために生み出されたツールなわけです。そういう共有物としての言葉、テキストっていうものを持ち込むことで、もう一段階おもしろい問題に入っていける感じがしているんです。RAUが集団としての活動であることと、テキストを使ってつくるということが結びつくと、新たな可能性が見えてくるかもしれない。

三宅 テキストと映像か……。初めてしゃべるからうまく言えるかわからないけれど、何か撮ったり書いたりする以前から、人は何らかの先入観やレッテルをその対象のモノに持っていると思うんです。映像にはそのレッテルを剥がしてくれるような能力があると僕は考えているんですね。もちろん映像をプロパガンダのように扱えば、レッテルを強化するような手段にもなり得るわけだけど、ある種の理屈で組み立てられた映像は、ある対象に張り付いているレッテルを剥がして、新たな見立てを与えてくれる。例えばイーストウッドがやってきた仕事って、実はそういうものなんじゃないかなと考えているんです。

ヒーローや女神みたいなものを強化するんじゃなくて解体して、あるひとりの人物として描くということを彼はずっとしてきたんじゃないかと。もちろん映像化した時点で新たなレッテルを張ることになっているのだとしても、また次のカット次のシーンですぐにそのレッテルを剥がし、宙づり状態におくというか、緊張状態に持っていくというか。

話を戻しますけど、RAUをやってておもしろいと思うのは、答えの扱い方です。、RAUを通して、世界はとても動的なもので不安定で仮の状態が続いている、常に生々しく変化しているというような態度を共通認識として持つようになったわけです。そこで、それが不安で居心地が悪いから「これはこういうものである」と答えを一つに断定していきたくなるんだけど、RAUではなるべくそうせずに、答えを不断に更新し続けることを選んでいる。なるべく切れ目なく動きながら捉え続けるために、メンバーがそれぞれ持つ技を共有しあって、磨きあっている感じがする。これを言いたくて、イーストウッドの話をしたんだけど、必要だったかな…。

ともかく、映像でここまでやってきたのなら次はテキストで、その次はまた映像で、と変化を続け、崩れ続けていく。揺らぎ続ける問いに対して、逐一見立てを変えていく。それはやっぱり──楽しいよね。同時に、結論がでないから不安にもなるよね。そんな感じです。

他家受粉からラーニングコレクティブへ

──何かを確定させず、不断に更新させていく。その運動を続ける上で重要なのが、技を共有しながら学ぶ集団の存在だと思います。

藤原 まずつくろうとしたのは、参加者同士が影響しあって作品制作が進んでいくような集団制作の場でした。昨年度はそれを他家受粉という言い方をしていたんですね。それで1年間やっていくと親密度がすごく高まって、個人でアーティスト活動をしている人なんかは、これが自分の作品なのか、集団で制作したものなのか、クレジットはどう表記すべきなのか混乱するようなことが起こってきた。昨年度はそこを曖昧にしたまま進んでいました。

そこで今年度から参加者をメンバーと呼ぶことにしました。RAUというプロジェクトに参加するということは、RAUという集団のメンバーになることです、と定義したんです。それで今日、全体の半分まで走ってみた印象としては、最終的にコレクティブワークのようなものを目指しているんだな、ということです。

昨年以上に親密度が高まっていて、今のRAUのメンバーに対する信頼は揺るがないものがある。この集団は、継続するんだろうなと思えます。それぞれが作品を作っているというよりは、作品制作を通してコレクティブを作ってるって考えると、今何をやってるのかもすごく明確になるし、大学の関わる役割としても間違っていないと感じられる。だからゲストアーティストとして来てくれているけど、三宅さんや柴崎さんもコレクティブの重要なメンバーだし、今後RAUがどういう方向性で行くにせよ、メンバーと相談しながら、あるべき方向性の舵取りをぼくと平倉さんでしていけばいいのかなって思ってます。

なんかようやくRAUが何をやってきているのか、どういう全体像なのか、10年後何を引き起こそうとしているのかが見えつつあるんです。だからRAUはコレクティブ。学ぶことにピュアであり続けるための集団──ラーニングコレクティブなんじゃないかな。

平倉 ぼくもそれはすごく感じるんですよね。やっぱり大学で教えているから、教えることや学ぶということには常に悩むんですけど、RAUでは学ぶことがものすごい純度を保った状態で成立してるんです。何か考えたい人が集まって、考えや技術を共有しあって、実験して、議論して。ああ、ここにはピュアな学びがあるぞ、っていう。

三宅 そうそうそう!

藤原 これ、結構感動的ですよね。大学という空間が一応起点にはなってるけど、大学の外にはみ出てるからこそ実現できることだと思うんです。また、アーティストを中心にしてるコレクティブであることも重要だと思っていて、ぼくらはあくまで舵取りしているだけで、三宅さんや柴崎さんがコレクティブの強烈な磁力になっている。

平倉 メンバーにさまざまな分野のプロが含まれているのも大きいですよね。それぞれの持つ技術と魅力が磁力を生んで、それが常に影響しあっている。

藤原 そうですね。RAUではあらゆる人間には技がある、ということが前提として理解されているんです。自己紹介がわりに「技の共有」として、それぞれの持つ知識や技術をシェアしていくんですが、例えば文科省にいるメンバーの方が、1年間ニホンウナギの生態調査をしていて、その技なんかおもしろすぎましたね。人工的にウナギがつくれないことが、よく理解できた。本当にね、やる気がないんですよね、ウナギの幼生体って(笑)。

三宅 次の日から何人にも話しましたもん、その話(笑)。ぼくは昨年度から引き続き、いい時間を過ごさせてもらってます。本当に普段あまり交わらない異業種の人たちの、しなやかさといえばいいかな、何度もトライ&エラーを繰り返されている様は、ふとした時に、ほんとにすごいなと思っていて。

具体例を挙げると、さきほどの高橋まりさんというメンバーが、恐らくすごく忙しいんだろうけど、何度もトライ&エラーを繰り返していて、手を動かす知性が柔らかくてしなやかな感じがする。あと根本的に、作品を作って見せるってすごく恥ずかしいことだったりするわけですが、RAUの信頼関係の中で、飛び込むようにつくったものをどんどん見せ合うことができている。この信頼関係の基盤、というのはひょっとしたら現役の学生だと逆にできなかったかもしれませんね。

──自分の仕事という、スペシャリストとしての持ち分があるからこそのものというか。

三宅 そうそう。もしかしたら本業ではそんなラフな実験は出来ないかもしれないけど、別の場だからこそ自在に試すことができているのかもしれない。だから風通しがいいような気もします。

藤原 今ひとつ例が挙がりましたけど、他にもこれはすごいな、という作品をつくる人がたくさんいるんですよね。でもそれぞれ本業がアーティストではないから、最終的に体外的な作品発表に至らない、ということもあるかもしれない。そう思うと、RAUがコレクティブとしてアーカイブして発表していくことは重要なんじゃないか、と思うんです。それが続いていけば、プロのアーティストとして生きていくのは大変だけど、RAUのメンバーとして作品を作り続けたいって思う人が現れるかもしれない。

──コレクティブの強みや意義が立ち上がりますよね。

藤原 そうなんですよね。アーティストとして芸術作品を作って生活のためのお金稼ぐとなると、ある種の形式化や演出的なことを過剰に行わなきゃいけない部分も出てきます。あるいは市場の要請や、偶然性の影響もある。そしてそちらに寄ってしまうと、作家としておもしろくなくなってしまうこともある。

そうじゃなくて、真に批評的でおもしろい考察続けながら、リラックスして作品制作を行える環境というのも重要だと思うんですよ。

三宅 RAUだと他のメンバーの手法を取り入れてみる、っていうことが自然に行われていくのもいいですよね。仕事として作家活動をしていると、やっぱりしにくい部分ではある。でも他のメンバーのアウトプットに影響を受けて、「自分だったらこうしてみる」とトライした経験から新しいものが生まれることって多々あるもんね。堂々と真似ができるという。

藤原 フルクサス(*7)とかに近いんじゃないですかね。あれもコレクティブでもあるし、個人個人の作品でもあるしね。

(*7)1960年代前半にアメリカの美術家ジョージ・マチューナスが主導し、欧米を中心に世界的な展開をみせた芸術ムーブメント、またグループを指す。日本では一柳慧、オノ・ヨーコ、小杉武久、塩見允枝子らが参加。美術家だけでなく詩人や音楽家などさまざまなジャンルの芸術家が同時多発的に関与し、のちのコンセプチュアル・アートの潮流へと拡散していった。

──2021年のRAUも折り返し、ということで明日から柴崎友香さんのパートがスタートします。後半戦、どうなっていくのでしょう。

平倉 柴崎さんは去年の「RAUフェス」という非常にわかりにくいことをやっている場をおもしろがってくださっていて、そのことにまずびっくりしました。新たな出会いが生まれそうだ、と感じています。後半も手探りでまだわからない部分が多いんですが、三宅さんも可能な範囲で参加してくださるということで、RAUが未知のゾーンに入っていくのを楽しみたいですね。

三宅 ぼくはもうこの10年、いや10年じゃ足りないな、長く柴崎さんのファンなので、ただただ楽しみです。

藤原 ぼくは「RAUフェス」での柴崎さんの言葉を扱う力、映像を見て選ぶ言葉の速度と的確さに本当に驚いたんです。なんというか、人は感性で捉えたものを他者に伝え表現するときに言葉に置き換えていくわけですが、柴崎さんはその精度がものすごい。そんな柴崎さんと一緒に何かを言葉を探したり、突き詰めたり、言葉から風景を考えるとか、そういうことをやっていくのは、単純にすごく楽しみだし、メンバーにとってもやっぱり大きな変化が生まれると思います。それが上手く噛み合えば間違いなく次の段階に行けるし、噛み合わなかったとしても、大きな課題や発見が得られると思う。そういう意味では、前向きに色々失敗してみたいなっていう気持ちはたくさんありますね。だけど緊張感はやっぱあるなあ。

そしてこれはとても贅沢な試みだと改めて思います。三宅さんも柴崎さんも、このどうなるか分からない旅に付き合ってくれるわけで、これから半年間何をやるかということ自体をともに想像していくので、こんな贅沢はないなって。存分に楽しみたいですね。

9/23 横浜国立大学 Y-GSA パワープラントホールにて収録